◆亀岡文珠堂奉納詩歌百首 序◆


奥之西、羽之南、有山、名曰龜崗、昔有徳一大師者、於本朝安文殊室利像者五所、此山便是其一也、無緇無素、詣于此山、哩禱心事、則無願不成矣、今茲慶長壬寅仲春廿七、蓂
豊氏兼続公、携二十餘員之雅友、入于此山、賦唐詩・倭歌一百篇、其詩之妙也、其歌之奇也、裁錦繍磨金玉、寔千年之風致也、聚作一冊、以需予書題辞、揶揄者数回、雖然、厳命不獲已、謾序

                                         前華園泰安玄劉





(書き下し)

奥の西、羽の南、山有り、名に曰く亀岡と。昔有徳の一大師は、本朝に於いて文殊の室に利像を安んずるは五所、此の山便(すなわち)其の一なり。緇(し)となく素となく、此の山に詣で、祷心する事則ち願として成らざるは無し。今茲慶長壬寅仲春廿七蓂
豊氏兼続公、二十余員の雅友を携え、此の山に入り、唐詩・倭歌一百篇を賦す、其の詩の妙なるや、其の歌の奇なるや、錦繍を裁ち、金玉を磨く、寔(まこと)に千年の風致なり、聚めて一冊に作り、以て予に題辞を書するを需む、揶揄するは数回、然りと雖も厳命已むを獲ず、序を謾る



(大意)

奥州の西、羽州の南に山がある。亀岡という。昔、有徳の一大師が、本朝の5ヶ所に文殊堂を造り、尊像を安置したが、この山はそのうちの一つである。世俗を問わずこの山に詣で、祈りごとを捧げるが、願いの成就しないことはない。今年慶長壬寅年(1602年)仲春(2月)27日、豊氏兼続公は二十余人の雅友とともにこの山に入り、唐詩・和歌あわせて百首を詠みあった。その詩の美しいこと、また、その歌のすばらしいこと、美しい着物を裁ち、金の玉石を磨くがごとく、まさに千年の風雅とでも言おうか。これを集めて一冊にまとめ、私に題辞を書くよう求めてきた。数回断ったけれども断りきれず、ここに序を記す。




*「序文」ならびに奉納詩歌百首本文は木村徳衛『直江兼続伝』に拠った。

奉納詩歌百首     

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