東北編  米沢


松岬神社

祭神は上杉鷹山・上杉景勝・直江兼続ら。
かつての景勝の住いだった御殿跡に造営されている。
松が岬公園(米沢城址)の入り口に位置する神社だが、公園内の賑わいとは裏腹に、ひっそりとしたたたずまいが印象的である。


神社境内にある「伝国の辞」の碑。
「伝国の辞」とは、上杉鷹山が次期藩主治広に家督を譲る時に示した、藩主としての心構えである。
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候








上杉神社

松岬神社側から「毘」の旗の翻る堀を渡ると、右手に謙信の坐像が、左手の小高い築山の上に「祀堂跡」がある。堀を渡ったまっすぐな参道の正面が、謙信を祭神として祀った上杉神社である。
神社の建物自体は、明治になって造られたものが大正8年の大火で消失、大正12年の再建というから80年余りの歳月を経ているわけで、そう古いものとは言えないが、謙信が祭られている、と考えただけで、厳粛な気持ちになるから不思議である。
神社のあるところは旧米沢城本丸の奥御殿跡。


◆祀堂跡

謙信の遺骸は景勝の米沢移封に伴い、米沢城内のこの地に祀堂を造営して安置された。祀堂には、謙信の遺骸を中央に、左に善光寺如来尊、右に泥足毘沙門天を配していたという。
明治になって謙信の遺骸は上杉家御廟所に移葬され、現在はその跡を留める石碑が建っている。




林泉寺

上杉氏奥方、及び家臣たちの菩提所である。
墓所のあちこちに見られる「万年塔」と呼ばれる墓石が、歴史の深さを伝えている。

写真の庭園は、かつて藩政期には米沢三名園の一つに数えられたものという。
池の周りがコンクリート仕様のもので囲われていて、少々興が冷める気がしたが、池の縁の白い躑躅が曇り空に初夏のすがすがしさを添えていた。
そういえば、松が岬公園もそうだったが、ここ米沢には白い躑躅がずいぶんと目立つ気がする。


◆直江兼続・お船の墓

正面からの写真は見飽きたので、少々角度を変えて撮ってみる。
こうしてみると、夫婦仲良く寄り添っているという感じがいっそう強調されるような気がする。
写真手前が兼続、奥がお船の墓。






照陽寺

◆上杉憲政の墓

照陽寺は市街地をやや離れ、白布温泉方面へ向かう道の途上にある。
道路に面して「関東管領上杉憲政の墓」という案内板が目立って立っているので、すぐにそことわかる。
(ただし、肝心のお墓にたどり着くまで、墓地の中を結構徘徊してしまったが・・・)

関東管領だった上杉憲政は北条氏に攻められ、謙信を頼って越後入りした。謙信は御館を建て厚遇したが、謙信の死後勃発した御館の乱では景虎方に与する。一方的に景虎に頼られた、といった方が適当かもしれない。乱のさなか、和議を請うべく景虎の子道満丸を伴って春日山城へ向かう途上討たれた。





上杉家廟所

鬱蒼とした杉木立は、その先が聖なる空間であることを知らしめているようで、おのづと背筋の伸びる思いで参道を歩く。「毘」と「龍」の旗が、何とも言われない威厳を保って御廟を守護しているかのようである。(「龍」の旗は、写真ではそっぽを向いているが・・・)

突き当たり正面が謙信の御廟。


写真は謙信の御廟の向かって左手にある景勝の御廟。

謙信の御廟を中心に、左右に歴代藩主の御廟が並ぶ。
謙信、景勝、定勝、鷹山の御廟の前で手を合わせる。
本来ならば全ての藩主の御廟に向かって合掌するべきなのだろうが、御四方のほかは心で手を合わせ、誠に勝手ながらそれで勘弁してもらおう。




法音寺

御廟所の入口にある上杉家菩提寺。
もともと越後魚沼郡藤原里に創建されていたが、景勝の移封に伴い、米沢城二の丸に建立された。明治になって13代藩主斉憲が東京移住にあたり、現在の地に移転された。
上杉家歴代藩主の位牌、善光寺如来尊、泥足毘沙門天などを安置する。

写真は景勝が逝去した時に殉死した家臣の墓。



2007.6月記ス

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