東北編  米沢市内外近郊


直江石堤

松川(最上川)の上流、海老ヶ沢(えびがさわ)橋の上・下流に連なる石堤。兼続は上杉家が米沢に移封になると、自ら差配して城下町造りを行なったが、治水事業にも力を尽くした。

この直江石堤も、名前の通り、兼続が自ら赤崩山に上り、この地に堤防を築くことの重要性を見出し、築堤を計画したと伝えられている。

現在1.2キロにわたって石堤が残り米沢市の史跡に指定されている。また、石堤のある河川敷は公園として開放されている。

訪れた日は休日とはいえ天気もあまりよいとは言えず、そのせいか人っ子一人いない「草原」であった。
駐車場近くに藤棚があり、藤の花が薄紫の花房をひっそりと滴らせていた。

(米沢市大字赤崩)


「龍師火帝」碑

この碑は直江石堤よりさらに松川の上流にある。
この碑のある辺りに兼続は猿尾堰を築いたが、この堰は南原五ヶ町の用水や米沢城三の丸西側の堀となった堀立川に水を供給する重要な堰であった。ところが堰上げ難しく、何度も失敗し、責任者が切腹したことから「切腹堤」とも呼ばれているという。
ようやく完成した堰の鎮守としてこの碑を置いたものとされている。

「龍師火帝」とは、古代中国の『千字本』の第19番目の句で、「龍師」は水神、「火帝」は火の神を意味する。
兼続は巨石にこの字句を書かしめ、水難や火難が起きないことを願ったものであろう。
『千字本』を出典とするところなどは、漢籍通の兼続ならではという気がする。

猿尾堰はその後何度か台風などで破壊され、この巨石も川底に埋まるなどしていた。それを引き上げ、昭和56年に現在の場所に整備された。

直江石堤よりさらに上流、ということと「李山」という住所以外わからなかったので、ひょっとしてたどり着けないかもしれない、と思いながらも「南原小李山分校」をカーナビの目的地に設定し、ひたすら松川(最上川)の上流へ。途中「龍師火帝の碑」と記された標識を見つけ、標識の通り左折。田んぼのあぜ道を抜けると、川の音が次第に大きくなり、目的の碑にたどり着いた。


*写真をクリックすると、碑の拡大写真にリンクします。

(米沢市大字李山丹南 最上川左岸)


亀岡文殊堂

亀岡大聖寺内にある文殊堂で、日本三大文殊の一つに数えられる。大同元年(807)の建立。
伊達政宗誕生の折、父輝宗が亀岡文殊堂の長海法師を通じて護摩を打った、という言い伝えがあるという。
江戸幕府の5代将軍徳川綱吉はこの文殊堂に深く帰依し、御朱印百石を与えたという。

上杉家が米沢移封となって間もない慶長7年(1602)2月27日、兼続は諸士に呼びかけ、この地で詩歌会を行なった。短冊に一首ずつ和歌あるいは漢詩を記し、全部で百首の詩歌をしたため奉納した。
(「亀岡文殊奉納詩歌百首の詳細は此方

亀岡文殊堂は鬱蒼とした山の中にある。
文殊堂へ続く石段はかなり急で、相当に年季が入っている。
参道の両側には十六羅漢がたたずんでおり、そのお顔を拝見しながら石段を登るのもまた一興。
訪れた日は、雨上がりのせいか、木立が水分を含んで青葉がいよいよ瑞々しく感じられた。静謐というには参拝客で結構な賑わいを見せていたが、聖地としての張り詰めた空気が当たり一面に漂っていた。

兼続をはじめ、詩歌会に集った人々も、同じ空気を感じていたのだろうか。

(高畠町)

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