米沢編(付 会津) 旅日記其の1

 

■会津若松城(鶴ヶ城)■

北陸自動車道から新潟の手前で磐越自動車道に入り、会津若松ICで、高速をおりる。
会津へ来たからにはやはり素通りすることができず、今回の旅程外の場所だったが、会津若松城(以下、鶴ヶ城)へ向かう。

鶴ヶ城は保科正之を藩祖とする会津藩歴代藩主の居城として、幕末には藩主松平容保が、京都守護職に就いていたために反幕府勢力の格好の標的となり、猛攻撃を受けた。城内の展示室に、当時の城の写真が何点か展示されていたが、堅固な城として定評のあった鶴ヶ城が、見るも無残な姿をさらしていて、当時の戦闘の激しさを物語っている。

階上の壁には白虎隊士の肖像画が懸けられており、16、7才の少年たちが、あの戦の中で散っていったことに改めて涙を禁じえない。
そして、「逆賊」の汚名を着せられた容保公が、生涯肌身離さず身につけていたという、孝明天皇の御製と御宸翰。そのレプリカが、容保公の写真と共に展示されていたが、明治の世になって、件の戦について、何一つ語らなかったという容保公は、どんな思いで御製並びに御宸翰を身につけていたのであろうか---

----と、会津と言えば、真っ先に戊辰戦争が思い出されるが、ここはかつて上杉景勝の居城であった所でもあるのだ。慶長3年(1598)、蒲生氏郷の死去により空白となった会津の地に、関東、東北方面の押えとして上杉景勝が入封した。それから3年あまり、関ヶ原で西軍が敗れ、米沢に減封となるまで、鶴ヶ城は景勝の居城であった。
その間秀吉の死去、家康の専横と、上方での抜き差しならない状況のため、景勝は新領地にとどまることが叶わず、景勝が会津の地に在住していたのは僅か1年数カ月の間であった。

景勝が入封した当時でさえ、鶴ヶ城は、堅牢な城とされていたらしいが、それにもかかわらず景勝はこれを手狭として、兼続に命じて神指城を築城せしめた。
鶴ヶ城の最上階の展望台からは、四方が見渡せるようになっており、壁にどの方角に何があるかが書かれている。西北の方向の一角に「神指城址」の文字が認められた。神指城は関ヶ原合戦がおこったため、築城途上でそのまま捨ておかれ、現代に至っているが、「神指城址」の文字が示された方向は、今、豊かな田園が広がっていた。

売店で『会津白虎隊』(歴史春秋社)を購入し、会津の地を後にする。R121を米沢へ。

写真撮影:又左衛門

2001.8月



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