墓参り

 


大きな声では言えないが、墓参りが趣味だったりする。
歴史愛好家の人の中には、少なからず、こんな趣味を持っている人がいることを知っているので、自分としては変だとは思わないのだが。

故人の墓石の前に立つと、心の引き締まる思いがする。
そっと手を合わせ、安らかなれ、永久に、と祈らずにはいられない。

自分ちの墓参りもろくにしないくせに…と叱られそうであるが・・・

 


■会津藩士の墓〜京都黒谷金戒光明寺〜■

京都は黒谷にある金戒光明寺は、幕末、会津藩主松平容保が、京都守護職に任じられ、本陣をおいた寺である。
ここに、幕末、禁門の変をはじめとする戦いや病で亡くなった会津藩士たちの墓がある。

境内の墓地の一番奥に、会津藩士たちの眠る墓所がある。
墓石に刻まれた「文久」などの年号を見た時、確かに彼らは生きていて、戦って命を落としたのだ、ということを実感した。

無法地帯と化した幕末京都に送り込まれた容保と会津藩士たち。彼らの働きのおかげで、京の町の治安は回復するかに見えた。
しかし、皮肉にも、時代は彼らに背を向け、図らずも「賊軍」の汚名を着せられた。
戊辰の戦で命を落とした人々は、「賊軍」という理由から、屍を埋葬することを禁じられた。帰るあてを失った屍が、北の原野に累々と積まれていたという。そして、今でも、その時の無縁仏が、ひっそりと眠っているという。
それに比べたら、安住の地とは言えないかもしれないが、墓所を与えられ、ここに眠る人々は、幸せかもしれない。
そんなことを思いながら、会津藩士の墓をあとにした。

 


■会津藩士の墓〜その2北海道利尻島〜■

北海道利尻島に、会津藩士の墓がある。

幕末の戊辰戦争から遡ること60年。一つ前の戊辰の年、会津藩は利尻方面に出兵していた。(文化5−1808年)
これは、ロシアの南下にともなう沿岸警備を目的として出兵したものである。
本来、幕府親藩は、僻地警備を命じられることはない慣例だったが、折から藩の軍制改革を断行していた会津藩は、幕府に願い出て利尻方面へ赴いたという。

幸い、ロシアの国内事情により、ロシアが南下してくることはなく、戦闘なくして会津藩士たちは8ヶ月の駐在を終えて、帰国することになる。
帰国途上、おりからの台風により、船が難破。死亡する藩士もいた。

その時死亡した藩士の墓が、今も利尻島に残されており、現在に至るまで、地元で厚い供養がなされているという。

地元の言い伝えによると、藩士の墓に使われている墓石は、藩士たちの故郷、会津磐梯山の石だという。だが、近年の調査で、墓石に使われている石と、磐梯山産の岩石は異質のものであることがわかったという。たとえ、どこの石が使われているのであれ、故郷の石の下に眠っているという言い伝えは、遠く故郷を離れて眠る藩士たちへの、地元の人々のあたたかい思いやりであるような気がする。

ここはいつか訪れたい。

 

利尻島のこと、知りたい方は、コチラ>>利尻町ホームページ

 



■真田氏墓所〜長野県真田町長谷寺および長野市松代長国寺〜■

《長谷寺》

真田氏の菩提寺。真田幸隆夫妻および昌幸の墓がある。
3人の墓が寄り添うように、新緑のなかにあった。墓前に、5円玉で六文銭の形に作ってお供えしてあったのが印象的だった。


《長国寺》

真田氏が松代に移封されてからの同氏の菩提寺。藩祖信之の霊屋と歴代の松代藩主の墓がある。藩祖信之の霊屋には華麗な鶴の彫刻が施されている。
信之の霊屋の横に4代藩主信弘の霊屋がある。こちらは藩祖のものに比べて、見劣りするくらい質素な作りになっている。聞くところによれば、藩の財政もずいぶん苦しくなっていたようで、これ以後、霊屋は作られなくなったそうである。
霊屋の奥に、歴代藩主の墓が、整然と並んでいる。静まり返った境内に、木々の青葉がまぶしかった。

 

整然と並ぶ真田氏歴代藩主のお墓

 


■前田家墓所〜金沢市野田山〜

金沢城の南方に位置する野田山は、前田家歴代藩主並びにその夫人や家臣たちの墓所である。
山を一つ墓所にしてしまうという、そのアイデア自体もすごいが、お墓の立派さもすごい。
さすが百万石!とため息をつかずにはいられない。
藩祖利家の横に、寄り添うように、という表現は墓の規模が大きすぎて、適当ではないのだが、夫人おまつが眠っている。我が身を人質に出すことで、前田家の安泰に大きく貢献した賢夫人だ。最近の調査によれば、人質として江戸に住んでいたころのおまつはあまり健康ではなかったらしい。夫が築き上げたものを守り抜こうとした心持ちは、その選択の善し悪しは別にしても、心に染みる。

利家の墓の一段上に、兄利久の墓がある。利家と利久は、一時、険悪な仲になったともいわれているが、利家が戦陣に赴く時、城の留守を兄利久がよく守ったという。利久の墓が、利家の墓より一段高いところにあるのは、兄に対する感謝と敬意の証だという。

歴代藩主の墓は、囲いがしてあって、整然としているのだが、家臣たちの墓は、所々森を切り開いた所に作ったようになっていて、少々不気味、である。そこここに盛られた土饅頭が妙に生々しかったりする。
そのせいか、ここは死者が眠るところ、神聖なる場である、ということが、改めて認識されて、思わず手を合わせずにはいられなくなる。

金沢の町を一望できる山の上で、今、彼らは安らかな眠りについている。

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