やまもも Date: 2003/09/27/Sat/08:02:28 |
三楽堂さん、よーぜんさん、おはようございます、やまももです。
三楽堂さん、和漢聯句、漢和聯句の実例の詳しいご紹介、とても勉強になりました。本当にありがとうございました。発句が和漢聯句の場合は和句、漢和聯句の場合は漢句でも、その後に連ねる句は和句、漢句どちらでも構わないということがよく分かりました。そうしますと、「脇遣于越州直江公焉」の意味を「脇を自分がつけて、これを直江公に贈った」と解釈しても問題はないですね。
ただ、承兌が幽斎の発句を受けて脇句を詠んだ場合は、「鹿苑日録」を記録していた人物(承兌自身なんでしょうか)は承兌が詠んだ脇句もしっかりと日録に記したと思うんですね。脇句そのものの記載がないということは、やはり兼続に脇句を詠むように依頼したと考えるのが自然だと私は思います(ガンコ一徹、我が道を行く)。
よーぜんさん、前に「漢文(漢詩)の勉強をしなおしたいと思う今日この頃・・・」と書いておられましたね。それで私ではいささか頼りないですが、「鹿苑日録」記載の「自幽齋發句現來」の「自」について講義の真似をさせてもらいます。
「自」は、場所や時の起点を示すときに用い、「自」+「名詞A」+「動詞B」の語順で使われ、例えば「有朋自遠方来」(朋有り遠方より来たる)などが有名ですね。
そうしますと、「自幽齋發句現來」は「幽齋より發句し現れ來る」か「幽齋の發句より現れ來る」の両方の読み下しが可能だと思いますが、意味はそんなに変わらないと思います。あくまでも発句は幽齋からなされたということを記述しており、「文箱を整理している折か何かに、ふと昔の連句を書き付けたものが出てきた、みると幽斎の『花の後歸るを雁の心哉』の句だった」という解釈はできないと考えます、ということで今朝の講義は終了しますが、いかがだったでしょうか。
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よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/09:14:14
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三楽堂さんがご紹介してくださった天正17年の連句会の作品ですが、以下に全作品をUPしてみました。参考までに。(句及び漢詩につけられた書き下しは『直江兼続伝』米沢信用金庫叢書より引用しました。なお、作品に付けた通し番号ならびに作者名のあとのアルファベットは便宜的によーぜんがつけたものです。)
http://shungansho.fc2web.com/kanwarenku.htm
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三楽堂 Date: 2003/09/27/Sat/10:47:45 |
#よーぜんさん、アップお疲れ様でした。
恋の句が3連続していますが、これもルールで決めてあったかもしれませんね。和漢連句はこうしたこまかいルールを決めておかないと、同じ主題でダラダラ続いたり、堂々めぐりのようになってしまいかねないのかもしれません。
#やまももさん
>脇句そのものの記載がないということは・・・
うーむ、どっちなんでしょうねえ。
記述者・承兌にとっては、わかりきっている自分の句をわざわざ日記に書くだろうか?という疑問も拭いきれません。執務日記は承兌以外の者の眼にもふれるわけで、淡々と事実のみを記したものです。自分の句を再録せずに、ただ「直江城州公へ遣わす」としたほうが節度があるような気がするのですが・・・
>兼続に脇句を詠むように依頼したと考える
わたしもこの線は可能性があると思います。が、一方で、自分の発句をたらいまわしにされたと知ったら、幽斎も心穏やかではいられないのでは?という思いもあります。
>「鹿苑日録」を記録していた人物(承兌自身なんでしょうか)
問題の記事は承兌が筆記したものでしょうね。
「鹿苑日録」は百年以上もの間、記録されている鹿苑院院主の執務日記のようなものです。代々の院主が書き継いでいったもののほかに、弟子たちの動向なども記されています。
たとえば、慶長五年四月に承兌が大坂へ行ったまま戻らないのを、弟子たちが心配している部分があります。この時は弟子のひとりがかわって記述したものでしょう。ちなみに、この時、大坂へ呼び出された承兌が、徳川家康から直江兼続への書状を書かされていたと推測しています。
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よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/12:06:45 |
やまももさん
「自」の解説、恐れ入ります。そうなんですよね、私もこの字は「〜より」と読むべきで、そうすると幽斎の句が送られてきた、という解釈が自然ですよね。ひょっとして、「自」を「おのずから」と読めないか、とも思ったのですが、(つまり、「おのづから幽斎発句現れ来る」と読んで、下で私がしたように解釈できないかと・・・)ただ、その場合だと、「幽斎」と「発句」の間に「之」とか「が」という助詞がないのが気になります。
やはりここは「幽斎より発句現れ来る」と読んでおくことにします。(ですが「現れ来る」といういい方がやはり気になる)
>和漢連句のルール
和漢連句に特別なルールがあったのかどうかはわからないのですが、例えば秋や春の句は5句まで許し、3句は必ず続けなくてはいけない、とか、恋の句は5句まで許し、2句は続けなくてはいけない、というようなルール(連句の世界では「式目」というんだそうです)があるそうです。(←俄仕込み)
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よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/12:07:50 |
「春雁」の句と幽斎の発句との関連についてここでちょっと整理してみたいと思います。
1.幽斎の発句の脇句として「春雁」の句がつけられた
(1)作者は兼続
この場合、承兌は送られてきた幽斎の発句の脇句
を兼続に依頼した。
(2)作者は承兌
なぜ、「春雁」の句が兼続作と現在に伝わっている
のか、という疑問が生じる
2.幽斎の発句に対する脇句は承兌が付けたが、発句と脇句を見せられた兼続が、自分なら、として「春雁」の句を詠んだ。
(ちょっと兼続、嫌味かも・・・)
3.すでに兼続作「春雁」の句は世に知られていて、その句の趣を幽斎が発句にした。
これは渡邊三省氏が『正伝直江兼続』の中で述べられています。
だいたいこんなところでしょうか。
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やまもも Date: 2003/09/27/Sat/12:22:02
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よーぜんさん、三楽堂さん、今日は、やまももです。
よーぜんさん、今朝私が書きました「自幽齋發句現來」の説明、少し手直ししたいと思います。それは、木村徳衞著『直江兼續傳』の264頁に引用されている「鹿苑日録」のつぎの文章の意味を漢和辞典を頼りに読み直し、少し認識が深まったからです。
七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也、白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来、裁書伸禮謝而己、自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉、云々
上記の冒頭の「七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也」(七日、早暁の勤行は常の如し。相國寺の鹿苑堂に僧来たる也)は、「僧侶が鹿苑堂に書簡を届けに来た」と解釈しました。次の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」の意味はよく分かりませんのでパスさせてもらって、続く「裁書伸禮謝而己」(書を裁して禮謝を伸べるのみ)を「書簡をしたためて使いの僧侶に渡し、(品物などは渡さず)ただお礼だけ言った」と理解しました。なお、「裁」には「文章やことばを適切にあんばいする」という意味があり、「伸」には「申しのべる」という意味があります。
それで、「自幽齋發句現來」は「幽齋よりの發句、現われ來たる」と読み下し、意味としては、僧侶にお礼を言って帰した後で書簡を開けたら、幽齋からの発句(懐紙に書き付けてあったと思います)が出てきた、ということではないでしょうか。
それで、幽齋の書簡そのものは、兼続に脇句を詠んでもらうようにとの依頼文だったので、使者に幽齋の発句の懐紙も持たせて兼続のところに送ったのではないでしょうか。
それから、「春雁」の句と幽斎の発句との関連についてのご整理、ありがとうございました。私も頭の整理になりました。それで、私は第3説あたりではないかと思っていますが、また後でいろいろ深めてみたいと思っています。
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三楽堂 Date: 2003/09/27/Sat/14:43:06 |
#「鹿苑日録」の解釈ですが。
鹿苑堂の僧が取り次いだのは「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」までであって、幽斎からの発句がやってきたのは別便でしょう。 「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」は、白雲興廣首座から双瓶2、豆腐が贈られてきたのです。双瓶とは徳利の一種です。要はお酒です。おつまみの豆腐がいっしょに贈られてきたわけです。二封とあるのは、当時のお酒は空気にふれるとじきに酢になってしまうため、口に封がしてあるので、これを言ったものと思います。 あるいはこの書き方からして、白雲興廣がお酒と豆腐をさげてやって来たのを、鹿苑堂の僧が取り次いだととらえることも可能かと思います。 お酒と豆腐だけ届けられたのでしたら、「自白雲興廣首座所」といった書き方が妥当でしょう。承兌にとっては、白雲興廣とお酒と豆腐が3点セットでやって来たと書くほど気安い関係なのでしょう。 飲んでいる最中か、飲んだあとかはわかりませんが、後刻、細川幽斎から発句が届いたとみるほうが妥当かと思います。(すでに発句が届いていて、この日に兼続へ脇句を贈ったという可能性もありますが)
#なぜ、「春雁」の句が兼続作と現在に伝わっているのか。
実はこの詩は兼続の署名があるわけではないのです。「春雁」が兼続の作であるとしている『常山紀談』は1700年代後半の成立。 木村徳衛などが典拠としている「米沢地名選」は1804年成立で、作者も「春雁」の句が兼続の真筆であるとは書いていません。いくつか紹介されているうち別の漢詩2編はどこそこの家に真筆ありと記しています。
承兌が贈った脇が、そのまま兼続のもとに保管され、没後、整理しているうちに彼の作品などと取り紛れてしまった可能性も考えられます。
「春雁」を兼続の作であるとする補強材料としては、なるべく近世初頭の文献が出てくるのが望ましいのですが・・・
よーぜんさん、整理ありがとうございます。自分で2をあげといて何ですが、わたしは、1(2)か3であるように思います。
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よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/18:53:55 |
やまももさん、山楽堂さん、レスありがとうございます。
>自分で2をあげといて何ですが
2はあまりにもイヤミですもの。山崎潤ならともかく。って、これは一部の方にしか通じないネタでした(^_^;
あと、1ですが、(2)としたらこれは新説ではないですか。説としては面白いと思うのですが、作が承兌ということで、ちょっと受け入れがたいかな...先入観でものをいってはいけないと思うのですが・・・。 1(1)の脇を兼続に依頼したというものですが、果たしてやまももさんのおっしゃるように幽齋の書簡が兼続に脇句を詠んでもらうようにとの依頼文で、兼続の元に幽齋の発句の懐紙も持たせて送ったということがありうるのかどうか。幽斎と兼続の当時の交友関係がどの程度のものだったのか、という問題も絡んでくると思うのですが、兼続が脇を詠むのだったら、兼続に直接送るのが自然ではないかと思うからです。
消去法でいくと、私の希望ということもあるんですが、私としては3を支持したいですね。
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やまもも Date: 2003/09/27/Sat/19:34:28 |
よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。
三楽堂さん、「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」のご説明ありがとうございました。これはご解説通り「白雲興廣首座から双瓶2、豆腐が贈られてきた」と理解すべきでしょうね。ただ、「鹿苑堂僧来也」の記述は後の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」とは別個の事柄と理解してもいいのではないでしょうか。
三楽堂さんは「鹿苑堂の僧が取り次いだ」と書いておられますね。しかし、この記述は「鹿苑日録」のものですから、わざわざ「「鹿苑堂の僧が取り次いだ」なんてことを記すとは思えないんですね。ここは「鹿苑堂に(他の塔頭或いは他の寺院の)僧がやって来た」という意味だと理解しました。そして待っていたその僧から渡された書簡を開いたら、幽齋の発句が書かれた懐書が出てきたと解釈することも可能だと思います。
なお、平凡社の『世界大百科事典』の「相国寺」の解説文中に「鹿苑院(ろくおんいん),資寿院,大智院,常徳院,雲頂院の5塔頭があったが,のちしだいに数を増した。(中略)義満は春屋を天下僧録に任じ,禅寺と禅僧を統轄させたが,やがて鹿苑院の院主が僧録をつかさどり,さらに院内の蔭涼軒(いんりようけん)の軒主がつかさどるようになった」とあります。
それから、「鹿苑日録」についてのご解説もありがとうございました。なお、平凡社『世界大百科事典』で「鹿苑日録」も調べましたら、その解説文の中に「1487‐1651年(長享1‐慶安4)の景徐周麟(けいじよしゆうりん),梅叔法霖(ばいしゆくほうりん),西笑承兌(さいしようしようたい),有節瑞保(ゆうせつずいほ),粂叔顕圭(きんしゆくけんたく)の日記を年代順に編集し,文書案や詩集の断簡を付加した」との記述がありました。当時において、詩歌はとても社会的に重要な意味を持っていましたから、「詩集の断簡」も日録に付加されたのでしょうね。「鹿苑日録」は私的な日記ではありませんから、もし承兌が脇句を詠んだら、それもきっと日録自体にきちっと記録されたのではないでしょうか。
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やまもも Date: 2003/09/27/Sat/19:43:34
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よーぜんさん、三楽堂さん、引き続いてこんばんは、やまももです。
最初は「鹿苑日録」の記述の解釈についてはお二人にお任せするつもりでおりましたが、論議すればするほどまた新たな疑問が生じ、BBS版「トリビアの泉」がこんこんと湧き出して来て、いつのまにやら私自身が深みにはまり込んでしまったようです。でも、幽齋の発句と兼続の春雁の漢詩との関連についてはそろそろ煮詰まってきたような気がいたします。
よーぜんさんが「1.幽斎の発句の脇句として『春雁』の句がつけられた」「2.幽斎の発句に対する脇句は承兌が付けたが、発句と脇句を見せられた兼続が、自分なら、として『春雁』の句を詠んだ」「3.すでに兼続作『春雁』の句は世に知られていて、その句の趣を幽斎が発句にした」との3説に整理されましたね。
まず、第1説ですが、お二人に紹介していただいた和漢聯句、漢和聯句の実例から見ても、一人が漢句を連続して詠む(漢句を重ねる)ということはないようですから、この兼続の「春雁」を和漢聯句の「脇句」とする説は可能性が余りないと考えられます。
次に第2説ですが、これは承兌が幽齋の発句を受けて脇句を詠んだという出発点そのものに対して大いに疑義があります。
それで、第3説は充分に可能だと思います。しかし、第4説として幽斎の発句を受けて兼続が「春雁」の文字の入った脇句を詠むとともに、さらにその脇句を七言二句の漢詩に作り直し、こうして「春雁似吾々似雁 洛陽城裏花背帰」が誕生したとも考えられます。
結局、第3説、第4説は、木村徳衞がその著『直江兼續傳』の264頁で、「幽齋の發句は、豫め兼續の作詩として最も有名である上二句の闕けて居る所の、『春雁似吾吾似雁。洛陽城裏花背歸。』を知って發句したもの歟。或は此句の考想に依って兼續の詩作となった歟。其何れが前後なるやは不明であるが、互いに關聯する所あるものと思はれる」との考察と同じものになりましたね。しかし、先学の研究の考察と同一になりましたが、よーぜんさん、三楽堂さんとの独自的な検討過程で随分と私自身は多くのことを学んだような気がいたします。
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やまもも Date: 2003/09/28/Sun/07:52:11 |
よーぜんさん、三楽堂さん、おはようございます、やまももです。
今朝、家の近くを犬を連れての散歩途中で「鹿苑日録」の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」についての新たな解釈が思い浮かびましたのでお伝えいたします。
文章そのものは三楽堂さんのご解釈に従うつもりなんですが、白雲興廣首座が双瓶と豆腐を届けたのは鹿苑堂を訪れた僧侶をもてなすためだったのではないでしょうか。これでなんとか「鹿苑日録」の問題の文章全体の意味が解けたような気がしましたので、下に私なりの現代語訳を載せておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 七日。早暁の勤行は通常通りにおこなわれた。鹿苑堂に僧侶が訪れた。白雲興廣首座から二対の双瓶と豆腐が届けられたので、それでその僧侶をもてなした。手紙を書いて僧侶に渡したが品物は渡さず、お礼のみを述べた。僧侶が帰った後、その僧侶が届けた書簡を開いたら、幽齋が発句して書き付けた懐書が出てきた。その発句は「花の後帰るを雁の心哉」というものであった。幽齋の書簡での依頼に従って脇句を越州直江公に付けてもらうことにした。以下略。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
細かいところではいろいろ解釈に問題はあると思いますが、朝の散歩のようにとてもすっきりしました(自画自賛)。
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よーぜん Date: 2003/09/28/Sun/10:07:42 |
やまももさん
「鹿苑日録」の現代語訳、お疲れ様でした。とてもすっきりとまとめていらっしゃるのにはさすが、とうなってしまいました。
細かいところ云々と書いていらっしゃいましたが、「鹿苑日録」が
執務日記であることを考えると、わかりきったことは省略したり、独自の表現などを使って書かれている事柄も多々あるように思います。
例えばやまももさんが指摘されている「鹿苑堂僧来也」の部分の解釈ですが、私もやまももさんのように「鹿苑堂に僧が来た」と解釈したのですが、これを取り次いだという風に解するとして、「鹿苑日録」の他の部分で、同じような用例があるのかどうか、細かいことを言えば検討してみる必要もあると思います。
幽斎の句と「春雁」の句の関連についてですが、「鹿苑日録」がいわば公的な日記である性格上、幽斎の句が来たとあるのは、個人的な「連句会(?)」ではなく、どちらかというと公的な性格の(それほど大げさなものではないにしても)連句会だったのではないでしょうか。(「連句会」と「」つきで書いたのは、「鹿苑日録」の記載だけでは、書付でもって句をつけていったと読めるからです。ですが、実際に一堂に会した連句会であったのでは、という気もするのです・・・)
また、発句は主賓格の人が作り、脇句は発句に沿うようにして亭主が読むというのが一般的な連句の作法のようです。当時直江は32歳、3度目か4度の上洛のときのことです。脇句が亭主、ということから言えば、直江がこの一連の連句会を主催したというよりは、相國寺の承兌が主催した、と考えるのが自然ではないかと思います。ですから脇は直江ではなく、承兌自信がつけたものと思います。
相國寺の承兌が主催した連句会と考えると、「鹿苑日録」に記載した理由というのも納得できるように思います。
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やまもも Date: 2003/09/28/Sun/14:42:32 |
よーぜんさん、こんにちは、やまももです。
「発句は主賓格の人が作り、脇句は発句に沿うようにして亭主が読むというのが一般的な連句の作法のようです」とのご説明、ありがとうございました。また、「相國寺の承兌が主催した連句会と考える」場合には、承兌が亭主となって脇句を詠むのではないかとのご指摘もごもっともだと思います。
ただ、「鹿苑日録」の天正十九(1591年)三月七日の「「自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉」の記述からは、相國寺で幽齋、承兌、兼続等が一堂に会して聯句会を催していたとは思われません。やはり、懐紙に書いた詩句を書状に添えて使いに持たせて伝達しているように思います。そのような「聯句会」の場合、幽齋のご指名で兼続が脇句を詠んでも不思議ではないと思います。
ところで、幽齋こと細川藤孝(1534年〜1610年)について、平凡社の『世界大百科事典』には、「和歌,連歌,鞠,太鼓,料理,茶道,儒学,書道,故実に通じ,当代有数の教養人であった」、「幽斎は中世末期から近世初期の歌壇の中心的存在で,二条派の正統を伝え発展させた」、「弟子は智仁(としひと)親王,烏丸光広(からすまるみつひろ),中院通勝(なかのいんみちかつ)らの堂上(とうしよう)歌人はじめ,地下歌人,武人など幅広い」としています。
問題の「鹿苑日録」の記述は1591年のものですから、幽齋はその時数えで五十八歳ですが、文人としてすでに高い名声を得ていたと思われます。ところで、承兌(1548年〜1607年)も相国寺住持であり、秀吉、家康にも重用された人物です。しかし、文の道では圧倒的に幽齋が上位にあったと思われます。ですから、その幽齋からの使いとして僧侶が相國寺の鹿苑堂を訪れたのですから、承兌は丁寧にもてなし、書状を書いて渡したのだと思います。きっと幽齋は書状で自分の発句の脇句を兼続に付けてもらうように要請していたと思います。
なお、当時の相國寺はあらゆる情報が集まり発信されるセンターの役割を果たしており、また各界の人々を結びつける社交の場でもあったと思います。だから、幽齋は相國寺を経由して兼続に自分の発句へ脇句をつけようとしたのではないでしょうか。当時はインターネットとか携帯電話でメール交換することもできませんでしたしね。
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よーぜん Date: 2003/09/28/Sun/17:24:46
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この「連句会」において、兼続が脇句を読んだとするやまももさんの説、たとえ、相国寺主催の「連句会」であるにしても、幽斎の「ご指名」があれば、兼続が脇を詠んでもなんら不思議はないかもしれません。また、「脇は亭主が詠む」という形式も、あるいはその時の状況によって必ずしも守らなければならないものでなかったのだとしたら、やまももさんのおっしゃるような場合もあるかと思います。
ただ、このときの「連句会」に関する史料はこの「鹿苑日誌」の記述のみで、この連句会に関わった人物としては幽斎と承兌、それに兼続の3名だけで、発句は幽斎のつくった「花の後歸るを雁の心哉」というものである以上のことはわかりません。
ですから、この「連句会」がどのような形で行われたものか(やまももさんのおっしゃるような書状の交換によるものであったのかどうか)ということも含めて、この「連句会」に関する別の史料でもあれば、また違う角度からアプローチできるのでしょうが、これ以上の議論は堂々巡りになってしまいそうなのですが、いかがなものでしょう。
お互いに譲れない部分は譲れないということで(笑)。
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やまもも Date: 2003/09/28/Sun/20:59:48 |
よーぜんさん、よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。
「鹿苑日誌」の解釈については、よーぜんさん、三楽堂さんからいろいろ貴重な知識や示唆を受け、お陰様で私自身は煮詰めるだけ煮詰めることができました。論議を始めるとつい夢中になってしまう性格ということもあり、また譲れない部分はやはり譲れませんが、しかしこれ以上煮詰めると煮物がお鍋に焦げ付いてしまうのじゃないかと私も心配になってきました。
本当にこれまで大変お世話になりました。またこれからも、全く別のことでお訊きすることもあるかもしれません。その時はどうかよろしくお願いいたします。「春雁抄」が今後一層素晴らしいサイトとして発展することを心からお祈り申し上げます。
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三楽堂 Date: 2003/09/28/Sun/21:59:27 |
主題がずれてきてしまっているようなので、そろそろ収束させましょうか。
「春雁」の詩が兼続のものに間違いないか、それとも承兌が作った可能性はあるのか、についてはよーぜんさんがおっしゃるように別の史料からのアプローチが必要になってくるでしょう。
やまももさんの「鹿苑日録」に関する記述で一箇所だけ首肯できなかった部分がありますので、そこだけ以下に記します。
>この記述は「鹿苑日録」のものですから、わざわざ「「鹿苑堂の僧が取り次いだ」なんてことを記すとは思えないんですね。
『鹿苑日録』の性格について、少し補足しますと、これは歴代住持の執務日記であることは変わらないのですが、関係者(住持の弟子とか)の日記やさまざまな記録を、後代になって年代順に編集しなおしているのです。ですから、公務日誌でありながら、私的なことも紛れ込んでいるわけで、後世のわれわれからすれば、この雑多な部分が非常にありがたくもあるのです。
鹿苑堂はご存知のとおり相国寺の塔頭のひとつですが、承兌は相国寺住持となった後、自ら創建した別の塔頭に住んだり、南禅寺へ移ったりしています。天正18年にはすでに鹿苑堂には常住してはいなかったようで、このため「鹿苑堂の僧が」云々という状況もあり得るのです。当時、承兌がいるところとは鹿苑堂ではなく、別の塔頭(あるいは相国寺?)だったのですから。ちなみに承兌は晩年にふたたび鹿苑堂に戻ったりしています。
ですから、承兌のもと(相国寺の別の塔頭?)に、鹿苑堂から使僧がやってきたということでしょう。
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よーぜん Date: 2003/09/29/Mon/20:30:40
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今回、やまももさんが質問提起してくださったことで、いろいろなご意見を聞くことができ、また、自分でも改めて「春雁」の句を考え直してみる機会に恵まれ、大変有意義だったと思います。
特に連句については、兼続がしていることだから少しは知っておきたい、と思いながらもなんとなくそのままになってしまっていたのですが、今回の議論を通して、連句についてもわずかながらではありますが、知識を持つことができたと思います。
「春雁」の句についてですが、細川幽斎の句との関わりも考慮に入れなくてはいけないのかもしれませんが、特に「花に背いて帰る」という最後の句に並々ならぬ決意が感じられ、やはりこれは、兼続が強い決意の元、帰国の途についた折に詠んだものという気がとてもするのです。
何か新しい史料が出てきて「これは実は承兌の句だった」とかの発見がない限りは、つよい決意を抱いて詠んだ兼続の句という理解をしておきたいと思います。
一連の議論については、BBSで流れてしまうのももったいない気がしますので、何らかの形で残しておきたいと思います。
本当にありがとうございました。
そして、今後とも、よろしくお願いいたします。
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三楽堂 Date: 2003/09/29/Mon/20:54:03 |
>一連の議論については、BBSで流れてしまうのももったいない気がしますので、何らかの形で残しておきたいと思います。
わたしもせっかくだから、ログを保存しておこうと思ったのですが、よーぜんさんのほうで何かお考えのようでしたら、よろしくお願いいたします。
今回のやりとりを突破口に、今後、自分なりに考えてみたいと思っています。
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