前田慶次郎
Maeda Keijirou

 

 

利太、利益、利卓とも。生死年不詳
前田利家の実兄利久の養子。織田信長家臣滝川一益の縁につながる。

前田家を出奔し、かぶき者として、数々の奇行譚がのこる。武勇にすぐれ、戦場での働きには定評があった。

兼続との出会いの時期は不明。1586年景勝上洛の際、加賀に立ち寄って利家の歓待を受けているが、このとき、慶次がまだ前田家にいたとしたら、二人はこのとき出会っていたかもしれない。

慶次のかぶきぶりは有名であるが、彼はただ奇行を重ねているだけではなかった。
『源氏物語』の講釈、『伊勢物語』の秘伝を受けるなど、学問や歌道にも長けていた。
武勇、奇行一辺倒ではなく、風流を愛する心を持っていた点、兼続も相通じるものを感じ取ったのであろう。

上杉家が会津に移封された時、慶次は上杉家に仕官し、兼続のもとで最上征討に参加。
関ヶ原後は、しばらく在京。この間、慶次の勇名を聞きつけた諸大名が慶次を招いたが、いずれの招きにも応じず、上杉家に仕官する。
このとき慶次は、景勝を「大剛の大将」と称賛し、自分の主として仕えたいと思うのは景勝をおいてほかにいない、というようなことを言っている。


慶次の死に関しては諸説ある。
米沢およびその近辺で死亡した、というのが一般的であるが、『加賀藩史料』には、前田利長(2代加賀藩主)の命によって慶次に従っていた野崎知通という者の手記として、慶長十年(1605)11月9日、73才で大和国で亡くなった、とある。
死亡したという年、慶次の年齢からして、少々信憑性に欠ける。
当の『加賀藩史料』でも、「前田慶次の没年は確かならず、今この文あるによりて」慶次の死亡をこの時とした、と注が記されているくらいである。
諸説の一つとして、取り上げてみた。


『無苦庵記』より

仰此無苦庵は、孝を勤べき親もなければ、憐れむべき子もなし。こころは墨に染ねども、髪結ふがむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠かき小揚やとはず。七年の病なければ三年の蓬も用ひず。雲無心にして岫を出るもまたをかし。詩歌に心なければ、月花も苦にならず。寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。

 

 

前田慶次の足跡に関する一考察

 【資料】「前田慶次殿伝

 

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