志貴皇子〜石激垂見之上乃〜




志貴皇子(?〜716) 
芝基、施基、志紀などにも作る。
天智天皇の第7皇子。母は越道君伊羅都売(こしのみちのきみのいらつめ)。
正室は多紀皇女(天武女)。子に白壁王(後の光仁天皇)、湯原王、榎井王、海上女王、坂合部女王、難波女王、衣縫女王など。
770年、子の白壁王が光仁天皇に即位したことで、死後、御春日宮天皇と追尊された。(または田原天皇とも)



    志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
                 (『万葉集』巻第八)


 志貴皇子の事跡はあまり伝えられていない。加増されたり叙品されたりという記録は残るが、具体的にどのような事跡をたどったのか、正史は黙して語らない。
 記されていない、ということは大きな失敗もなさなかった代わりに、とりわけ目立った活動もしなかったということだろうか。
 正史には記されていないが、歌という足跡を残すことで、志貴皇子は私たちにさまざまなことを語りかけてくれる。

 先の歌などは、誰もが一度は目にしたことのある歌であろうと思う。

 雪解けの水が岩からほとばしるようにして、滝を作っている。その小さな滝の上の方に、若い蕨が芽を出している。ああ、春になったのだなあ、と、実に素直に春になった喜びを歌い上げている。ほとばしる「垂水」の水の勢いが、春になってどこかうきうきしてしまう気持ちを具現化しているようである。

 ところで、周知のことであるが、『万葉集』の歌は全て万葉仮名で書かれている。この「早蕨」の歌も、実際には次のように表記されている。


石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨


 「石激」―

 この用字を目にしたとき、この歌を単なる春の喜びを歌った歌として片付けてしまうことに物足りなさを感じた。「激」の字が示すように、何か、とても激しい熱情のようなものを感じたからである。

 「石走る」は、近江、滝、垂水などにかかる枕詞であるが、『万葉集』においてどのくらい使用されているのか調べてみると、これが意外に少ない。この志貴皇子の歌を含めて8例に見えるだけである。
 その用字を見てみると、

   石走・・・4例
   磐走・・・1例
   石流・・・1例
   伊波婆之流・・・1例

 また、単に「はしる(=走る)」の用字は「走」「婆斯留」「波之流」が使われている。
「石流」で、水の流れる様子であるから「はしる」に「流」の字をあてたのはよくわかる。
 だが、「激」の字を「はしる」と読ませているのは、この歌だけなのである。


(もしかしたら、実際には違う読み方で読んでいたものかもしれない。また、作者はこの字を用いたわけではなく、『万葉集』に採録するときに、この字をあてたものかもしれない。けれども、ここでその「オリジナル」を追求することは意味がないので、そういう議論は置くことにする。)


石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から
 (石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良久 吾情柄   巻十二)


 同じ「石走る垂水」という使い方をしている例としてあげてみた。この歌は恋の歌であり、単なる春の喜びを歌った歌に使用するよりは「激」の字をあてるのに相応しいかとも思ったが、オーソドックスに「走」を用いている。

 「激」の字をあてて「はしる」と読ませている用例は志貴皇子のこの歌の他に例がなく、それだけにこの歌は非常に特異な印象を受ける。

 詞書は「懽」とあるだけで、皇子の喜びの正体はわからない。抱え込んでいた大きな苦悩が氷解したのかもしれないし、あるいは叶わぬと思っていた恋が成就したのかもしれない。
 ほとばしるような熱情を春の訪れの喜びに内包させて詠んだ歌、そう捉えるのは、深読みに過ぎるであろうか。

 

 『万葉集』から約500年の後、志貴皇子のこの歌が、再び採録された。
 『新古今和歌集』春歌上に「題しらず」として


岩そそぐたるひの上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかな


 『新古今集』には、5人の選者がいたが、各々の歌には、その歌を選んだ選者の名が記されている。(ただし源通具を除く)
 そして、志貴皇子のこの歌には、4人の選者(藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経)の名が記されている。新古今の時代になっても、この歌が、新鮮な感覚で受け止められていたことがうかがえる。

 ただ、「石走る」は「岩そそぐ」に、「なりにけるかも」は「なりにけるかな」と読み方が変えられ、風雅ではあるが、どこか取り繕ったようなすました感じの歌になってしまっている。
 「石激」に象徴される激しい熱情はかけらも感じられない。
 水量は増しているが、決してほとばしり出る激しさのない小さな滝の近くに、柔らかな早蕨が生えている。穏やかな陽光に包まれた、春の情景が見えるだけである。



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