草壁皇子之巻

前回大津皇子を取り上げたので、彼を取り上げるからにはライバル的存在であった草壁皇子も取り上げないと片手落ちのような気がしますので…

 

草壁皇子Kusakabe-no-ouji(662〜689)

662年、天武天皇の第二皇子として生まれる。母は鸕野讃良皇女(後の持統天皇〉。
679年吉野の会盟で、天武帝の第一皇子の地位を確立。681年皇太子となり、朝政に参加する。
686年、異母弟の大津皇子が謀反の嫌疑により処刑されたことで、草壁の皇太子としての地位は揺るぎないものとなった。が、その3年後689年4月13日薨ずる。28歳。
妃は阿閇皇女〈後の元明天皇)。阿閇皇女との間に氷高皇女(後の元正天皇)、軽皇子(後の文武天皇)、吉備内親王をもうけた。


 

天武天皇を父に、鸕野讃良皇女を母に持ち、当時としては最高の血統を持って生まれた草壁皇子。679年の吉野の会盟のとき、数多い天武帝の皇子たちのなかで筆頭皇子として認められ、草壁の皇太子の地位は約束された。
「光り輝く日の皇子」であるにもかかわらず、草壁に対するイメージは、「凡庸」「病弱」--と、負のイメージが常について回る。


果たして草壁は、本当に病弱で凡庸な皇子だったのだろうか。

草壁に関する史料はあまりにも少ない。「正史」であるはずの『日本書紀』にも、彼のことについてはあまりというか、ほとんど言及していない。朝政に参加したこと、その死に触れることくらいで、具体的な業績や人となりを知ることは不可能といっていい。

「病弱」というイメージは、おそらく彼が28歳という若さで薨じたことによるものであろう。医学の発達していない当時にあっては、ちょっとした風邪が命取りとなった。その意味で言えば、天武や持統といった人たちは、『日本書紀』などの記述どおりとするなら、かなり頑強な身体の持ち主だったのだろう。(もっとも天武は晩年病を得て亡くなったらしいが。)



※天武天皇の没年齢に関しては諸説あるが、最も若い説で56歳没説、65歳没説、73歳没説などある。持統天皇は58歳で死亡。



とにかく、若くして亡くなったことが、病弱というイメージとなっているのだろうが、彼が死ぬまでに、病を得た、という記録はない。血縁結婚のゆえの脆弱さを言う説もあるが、確証はない。
要するに、史料から推して草壁が病弱だったとする確証はないのであって、ひとつの可能性としてそうだったのかもしれない、といえるに過ぎない。(阿閇皇女との間に一男、二女をもうけていることを考えると、それほど「病弱」ではなかったのではないかという気がしないでもない。)


草壁が若くして亡くなったことに関して、吉野裕子氏は陰陽道の立場から、草壁は母持統によって殺されたと説くが、ここでは説の紹介だけにとどめておく。

 

次に、彼に対する「凡庸」というイメージ。

先にも述べたように、草壁に関する史料というのは極めて少ない。
彼と比較対照される大津皇子は、『海風藻』や『万葉集』にいくつかの詩歌が採られ、その人となりも語られている。ところが草壁皇子のほうは、残されているのは『万葉集』にある石川郎女への歌一首のみ。

大名児(おおなこ)が彼方(おちかた)野辺に刈る草(かや)の束の間もわが忘れめや              (巻第二・110)

大名児(石川郎女の通称)のことが少しの間も忘れられない、という、あまりにわかりやすい歌である。この歌に対する返歌は残されていない。(返歌をもらえなかった?)

一方、石川郎女には、大津皇子との贈答歌もあって、

あしひきの山のしづくに妹待つとわが立ち濡れし山のしづくに 
                       大津皇子(巻第ニ・107)
     
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを 
                       石川郎女(巻第二・108)


草壁の歌に比べると、なんとも艶っぽい歌である。この恋のために大津は自らの命を縮めたとも言われている。
それはともかく、草壁は通り一遍の素養はあったにしても、飛びぬけて歌をよくしたというのではなさそうである。


残されたわずかな記録から、こうと言いきってしまうのは酷なことであるかもしれないが。

 

草壁が亡くなったとき、柿本人麻呂をはじめ、彼の舎人たちがその死を悼んで挽歌を詠んでいる。
人麻呂は格調高い麗句を操って彼の死を悼み、舎人たちは「高光る日の皇子」と草壁をたたえている。もちろん、殯宮の場での儀礼的な歌ではあるが、その死に臨んで「高光る日の皇子」とたたえられた草壁に対して、記録にその足跡を残していないことから生じる事柄とのギャップが、なんだか哀しい。


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