大津皇子之巻

大津皇子Ohtu-no-miko(663〜686)

663年天武天皇の第3皇子として生れる。母は天智天皇の娘の太田皇女。
683年初めて政事に参加。詩歌をよくし、人望も厚かった。
686年皇太子(草壁皇子)に対する謀叛のかどで捕縛され、刑に処せられた。24才。
同母の姉に、伊勢神宮の斎王となった大来皇女がいる。


 

朱鳥元年(686)10月3日、「謀叛」の罪により大津皇子処刑。時に年24。
大津皇子が処刑された直後の記事に、『日本書紀』は次のような、大津の人となりを述べた文章を載せている。

皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのすめらみこと--注:天武天皇)の第三子なり。容止(みかほ)たかく岸(さが)しくして音辞(みことば)俊(すぐ)れ朗(あきらか)なり。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと--注:天智天皇)の為に愛まれたてまつりたまふ。長(ひととなる)に及(いた)りて弁(わきわき)しくして才学(かど)有(ま)す。尤も文筆(ふみつくること)を愛(この)みたまふ。詩賦の興(おこり)、大津より始まれり。

私はこの文章に、ずっと違和感を感じていた。内容に関しては、大津の人となりを述べてあるだけなので、別段おかしなところはない。
問題は、なぜ、大津の死にあたって、これほど美辞を並べ立てて書いてあるのか、ということである。
大津の異母兄弟で、皇太子の地位にあった草壁皇子は、大津の死の3年後、これまた28才という若さで亡くなっているが、その死は

皇太子草壁尊薨

と一言述べるにとどまっている。
一方、天武の第一子でありながら、出自のゆえに草壁、大津の下の地位に甘んじなければならなかった高市皇子の死に関しても、草壁同様

後皇子尊薨

と、これも一言で片づけている。
(草壁、高市に用いられている「尊」の字、また、高市について「後皇子」と表現されていることについては議論があるが、ここでは問題にしない。)

罪人として死んだ大津の死に際して、美辞を連ねてその人となりを記しているのに比べ、次期天皇位を約された草壁や、草壁の死後、持統のもとで辣腕を振るったであろうと思われる高市の死が、「薨」の一字で語られてしまっているのはどういうわけだろうか。

私は、草壁や高市の死に関する記事の少なさに、かつては彼らが尋常でない死を遂げたせいではないかと考えていたことがある。その死因を隠さなければならなかったが為に、「薨」の一文字で片づけてしまったのではないか、と。
対する大津が罪人として亡くなったことは衆目の知るところであるから、その死にあって多弁な事は、なんら不自然なことではない。

だが、しかし…

思いを巡らすうちに、ある時ふと閃いた。

これは墓碑銘ではないか、と。

大津は何度も言うように罪人として死んだ。それも「謀叛」という当時にしてみれば、妙な言い方だが、「第一級」の罪を犯した事になる。
ただ、大津の罪が、冤罪に近いものだったことは、大津の罪に連座した者たちへの処分の軽さから見ても明らかである。大津皇子という巨才を抹殺するための持統の謀略であった。持統がほしかったのは、まさに大津の首級一つだったのである。

大津の死を悼む者は少なからずいたはずで、夫にすがってそのあとを追った妃山辺皇女の死のありさまに「見る者皆嘆く」とあることからも察することができる。
また、伊勢斎王として伊勢の地にあった大津の同母姉大来皇女は、大津の死の約一月半後に京師に帰ってくるが、帰還の翌日、京師を地震が襲った。これは想像の域を出ないのであるが、地震の規模がどれほどのものであれ、当時の人々の中に、これを「祟り」と見ない者がいただろうか。『書記』には「地震(なゐふる)」と一言、この地震に触れるだけであるが、この一言が、人々の動揺を雄弁に語っているように思えてならない。

持統自身、消したはいいものの、何か後ろめたさを感じていたかもしれない。
大津の屍を二上山に移葬したのも、そうした持統の気持ちの現れであったろう。
太陽の沈みゆく二上山は黄泉の国の入り口でもある。黄泉の国の入り口にあって、この京師を守護し奉れ……思いを込めて持統は大津を移葬したのだろう。

『書紀』が上宰された時には持統は既に亡くなっていたが、『書紀』の編纂にあたった人々が、彼の才に敬意を表し、謀叛の疑いで処刑された彼の死を傷んで墓碑銘を記した。それが『書紀』に記された「皇子大津は云々」以下の文章なのではないだろうか。

 

 


 

(追記)
文中、大津の罪が「冤罪にちかいものだった」という表現をしたが、彼の罪は全くの冤罪だったとは言えないように思っている。
このことは稿を改めて書いてみたい。

文中の人名は、一般に知られているものにした。念のため。

 

 


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