其の伍 春雁考


   春雁似吾々似雁
   洛陽城裏背花帰

兼続の有名な漢詩である。
この漢詩についてしばしば言われるのは、

   花のあと帰るを雁の心哉

という細川幽斎の発句との関連である。
この発句は、天正19年3月7日の『鹿苑日録』(京都・相国寺の日誌)に

   七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也、自雲與廣首座双瓶二對豆腐到来、
   裁書伸禮謝而巳、自幽斎發句現来、句曰花の後帰るを雁の心哉、脇遣于
   越州直江公焉、云々

(七日、早暁勤行常の如し、鹿苑堂僧来る、雲與廣首座より双瓶二対、豆腐到来す、書を裁して礼謝を伸べるのみ、幽斎より発句現来す、句に曰く、花の後帰るを雁の心哉、脇越州直江公へ遣わす、云々)

とあるところのものである。
この記事から木村徳衛氏は

   (筆者注:兼続の詩と幽斎の句は)其何れが前後なるやは不明であるが、
   互に関聯する所あるものと思はれる。(『直江兼続伝』)

とし、渡邊三省氏にいたっては

   兼続の「春雁」の句はすでに広く知られていたらしく、幽斎はこれを発句に改作
   して示した。(『正伝直江兼続』)

と木村氏よりさらに踏み込んで、積極的に両者の句の関連を指摘している。


兼続の詩と幽斎の発句の関連が言われるのは、どちらも春の雁(帰雁)を題材にしていること、さらに『鹿苑日録』に幽斎の句に脇をつけて兼続に遣わしたという前出の記事による。
果たして両者はどちらかが後先となってもう一方に影響を与えたというべきものなのかどうか。


雁は秋、北方から飛来して日本で越冬し、春北へ帰ってゆく。
雁の飛翔する姿や鳴き声に優なるものを見出した人々は、古来から多くの歌に雁を詠み込んできた。
『万葉集』『古今集』の時代には圧倒的に秋の雁を詠んだものが多いが、それでも春の雁は、『万葉集』に家持の歌が2首、『古今集』に4首採られている。時代が下るにつれて、春の雁(帰雁)も多く詠まれるようになった。


『古今集』から『新古今集』にいたる、いわゆる「八大集」における配列を見ると、「春の雁(帰雁)」の歌の前後に「花」の歌を、あるいは「春の雁」の歌のあとに「花」の歌を置くという配列になっている。
これはその後の勅撰集や私家集にも踏襲されているようである。つまり雁は花の季節に北へ向けて帰ってゆくもので、花を愛でてやまない人々にとってはそういう雁が奇異なものと映ったのであろう。

   春霞立つを見捨ててゆく雁は花なき里に住みやならへる
                  (『古今和歌集』 春歌上)

という伊勢の歌は、花を見捨てるかのように北へ去ってゆく雁の姿と、その雁に対する思いを的確に表現している。
また、「北へ帰る」ということで、春の雁は望郷の思いを掻き立てるものでもあった。
須磨に流された光源氏が

   ふるさとをいづれの春か行きて見む羨ましきは帰るかりがね
                  (『源氏物語』 須磨)

と帰雁に託した思いは象徴的である。


「春の雁(帰雁)」は和歌のみならず漢詩にも詠まれている。中唐の詩人銭起(せんき)は「帰雁」という題で幻想的な美しい詩を残しているし、『和漢朗詠集』には「雁 付帰雁」という部立を設け、春の雁の詩を載せている。
「帰雁(春の雁)」は決して新しいテーマではなく、日本(及び中国)の詩歌の世界においては伝統的なテーマであった。


当代の歌の上手であった幽斎は当然のことながらそういう歌の素材、テーマということに精通していたであろう。
兼続の詩作は、ほとんど漢詩であるが、和歌に造詣がなかったわけではない。天正13年に、『古今集』以下十余りの歌集より百十数首の古歌を選んで「師説撰歌和歌集」として木戸寿三に注釈させているし、わずかではあるが連歌会において和句を詠んでもいる(文禄2年正月10日の連歌会)。したがって兼続も、「帰雁」というものが古くから歌のテーマとして詠まれてきたことは周知していたであろう。


そういう観点から兼続の「春雁」の詩、ならびに幽斎の発句を眺めてみると、二人の詩や句に特別なつながりが見出されるというよりは、詩歌の伝統の延長の上にある詩であり句である、といえるのではないだろうか。
ことに兼続の漢詩は、花の中を北へ帰る雁、そしてその雁と同じように春たけなわの日、北へ旅立とうとする己の姿を描いている。まさに「春霞立つを見捨ててゆく雁」が、己が、そこに存在するのである。どちらかといえば和歌の伝統をそっくり受け継いだ形の詩となっている。


一方、幽斎の発句は「花の後」に帰ろうとする雁の心に触れたものである。これまでの和歌の伝統から言うと、雁は花の盛りの時期に北へ向けて旅立つものであった。幽斎の歌集『衆妙集』に載せられた春の雁も、花の季節に帰ってゆく雁である(「詠歌百首和歌」 帰雁 / 「春部」 春雁離)。
「花の後の雁」――これはおそらく和歌の世界ではありえない事象なのではないだろうか。発句という和歌とは別個の文学ジャンルの中で幽斎が独自に確立した世界ではないだろうか。後の俳諧のおかしみ、新しみに通じるような、発句作者としての幽斎の面目躍如を感じる。


和歌の伝統の延長にあって、花に背いて旅立つ己を雁に見立て、固い決意を表明している兼続の漢詩。
和歌の伝統を踏まえながらもさらに一歩踏み込んで独自の世界を十七文字に詠みこんだ幽斎の発句。
両者は同じ「春の雁」を題材にとりながら、それぞれに別個の風景を描き出している。(ここでいう「風景」とは、目に映る景観のみならず、詩に描かれた言外の趣きも含まれる。)
したがって、どちらかが後先となってもう一方の詩作に影響を与えたというものではないであろうし、渡邊氏が言うような、幽斎が兼続の漢詩を「発句に改作」したというのはあたらないのではないだろうか。


『鹿苑日録』の記事に関連して、明らかに両者の詩句に関連性がうかがえる新資料が見つかったとしたら、私が述べてきたことは水泡に帰すのであるが、現段階において、先の『鹿苑日録』の記事および歌題(句題)の共通性のみで両者の関連を言うのは適切ではないという気がする。
兼続の漢詩も幽斎の発句も、和歌(詩歌)の伝統を踏襲した「帰雁」をテーマにしたものという共通性はあるが、それ以上の関連性はないものと考える。


最後に、「春の雁」というテーマに関して、次の詩を挙げておく。これは、慶長7年(1602)2月27日、兼続の主催した亀岡文殊堂の詩歌会に歌われた宇津江九右衛門の「帰雁」と題する詩である。
兼続と宇津江の両方の漢詩で使われている「背」という字に、彼らの、置かれた境遇に対する強固な意志を感じずにはいられない。

    帰雁聲々只懶聞  (帰雁声々只懶聞す)
    月明影落数行群  (月明影落 数行の群)
    瀟湘何事背春去  (瀟湘何事ぞ 春に背き去る)
    飛入塞天萬里雲  (飛び入りて天を塞ぐ 万里の雲)

2005.07


★兼続の「春雁」の詩に関しては、以前当サイトBBSで話題になりました。
過去ログがありますので、そちらもあわせてご覧いただけると幸いです。
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