其の参 関ケ原雑感〜兼続・三成の共謀はあったか〜

兼続と三成を語る上で、関ケ原合戦における二人の共謀があったか否かは避けて通れない問題である。
すなわち、東西から、家康を挟み撃ちするという策が両者の間で謀られたとして、小説の題材になっているものも多い。
これに対して、共謀はありえないとする「密約否定論」が、通説になっているようである。
上杉家は当時、新領国の経営も緒につかぬ時期であり、資金面からしても、大敵に戦いを挑むなど、ありえない、というのが理由のようだ。「密約否定論」を唱える人の中には、「直江状」の存在も否定する向きもある。


慶長5年(1600)6月20日付の三成から兼続に宛てた書状がある。大坂方面の状況と三成の覚悟の程を知らせた書状であるが、この中で、「…兼ね兼ねの調略存分に任せ、天の与と祝着せしめ候、我等も油断無く支度仕り候間……」と、かねてからの事前密約をうかがわせる表現が見られる。

三成と兼続が家康打倒の密談をする機会があったかどうかということで、渡邊三省氏は慶長3年10月2日、秀吉の訃報を知って景勝主従が上洛した日から翌4年8月、帰国するまでの10ヵ月間に絞って考察しておられる。伏見での上杉屋敷と三成屋敷はごく近隣にあったそうで、三成が佐和山に引退することとなった慶長4年3月以前だけでも、約5ヵ月は三成も伏見に在住していた。その間、両者が互いの屋敷を行き来することはなかった、とするほうが、むしろ不自然ではないか。お互いに会って、どんな話をしたのか、ということになるとここからはもう想像の域を出ないのであるが、三成から、家康打倒を匂わせる話が出たとしても不思議はない。
ただ、もしもこのときに「密約」的な話があったとして、どの程度突っ込んだ話がされたかどうかはわからない。在京のこの時期、上杉家にとって、家康に対する危機感は家康打倒に向かうほど強くはなかったと思われるからである。もちろんこの時期、家康が亡き秀吉との誓詞を反古にする振る舞いを、兼続は目の当たりにはしている。


いずれにしても、程度がどのようなものであれ、二人の密談の機会はあった。

慶長4年8月、帰国後の景勝は、領内の整備を手がけ、翌慶長5年2月からは、兼続に命じて神指原に新城を築城させる。この普請にあたっては、13ヶ村を移転させ、12万人余の人夫を動員して行われたという。もっとも、この築城は、隠密裏に行われたものではなく、江戸の徳川秀忠の了解のもとに行っているのである。

多くの浪人の召抱え、巨大な城の普請、上杉に対する讒言…
家康は是が非でも上杉を屈服させようと上洛を迫るが、景勝は動じない。「直江状」を以ってこれに応え、ついに家康は会津討伐を決意する。


三成にしてみれば、願ってもないシナリオであったろう。慶長4年8月に兼続が国へ帰ってから、三成とどの程度の接触があったかわからない。在京中に三成と兼続の間でなんらかの合意があったとするなら、帰国後も、両者の間で書簡のやり取りはあっただろう。しかし、確たる証拠はない。

三成としては、主家豊臣家を差し置いて自分の意のままに、まるで「天下人」のごとき振る舞いをする家康は、主家のために、有無をいわせず倒さねばならない相手であった。
今井林太郎氏は「景勝が家康と一戦を交えることを決意するに至ったのを見て、三成はこれと連絡をとり、提携するに至った。」としているが、それでは三成の動機がいささか消極的過ぎる。
兼続にしてみれば、主家上杉家に難癖をつけて脚下に屈服させようとしている家康は、やはり我慢のならない相手であった。
そこに両者の利害の一致があったのであり、二人が家康を倒す、ということにおいて共謀した可能性は大いにありうる。


ただ、二人の合意があったとして、具体的な戦略というところまで話が及んでいたかどうかは疑問である。
家康が小山で軍を返したとき、兼続が追撃を進言したにもかかわらず、景勝はその言を退けたからである。
兼続と三成との「密約」があったとしても、それは両者レベルの(私的レベルの)「密約」であって、上杉家全体を巻き込むレベルのものではなかったと思う。たとえ、景勝が二人の「密約」を知っていたとしても。



兼続の主はあくまで景勝であり、主が否という以上、それに従わざるを得ない。兼続としては、まさに「天与の機会」を逸したのであり、悔やまれたことだろう。
しかし兼続は、そこで一人立って家康の追撃には向かわず、翻って最上征伐に向かった。兼続は上杉家での自己の立場をわきまえていたのだと思う。三成との「密約」があったのなら、兼続のしたことは友を裏切る行為であったかもしれない。けれども彼は景勝の家臣であり、主の信頼に応えることこそが、兼続の「義」を立てることであったと思う。


2001年10月

 

 モドル

 

 

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