其の弐 兼続の謎


直江兼続には、いくつか疑問に思うことがある。特に、その死をめぐってわからないことが多い。以下に疑問点を整理してみた。
これらの疑問は一つ一つ別々に解決するものではなく、おそらく根っこの部分で一つに繋がっているように思われる。一つの謎が解明されることでほかの謎もするすると説き明かされていくように思う。
そして、これらの謎が解けたとき、兼続の実像に迫れるように思うのだが…

 


 

謎その一】

本多政重養子之事》…政重はなぜ兼続の養子になったのか、そしてなぜ、上杉家を去ったのか?


 

関ヶ原戦後、上杉家の処遇に関して家康との間に入って周旋したのは本多正信であったという。その縁で、政重は上杉に迎えられることになった。

政重が兼続の養子になった当時、兼続には10才になる長男がいたから、跡継ぎという理由だけで政重を養子にしたとは考えにくい。もっとも長男平八景明は身体が弱かったらしいから、万が一の場合のことをも考慮した上で政重を養子にしたのだろうか。

政重が兼続の養子となった経緯について、気になる史料がある。
『加賀藩史料』に載せられた「本多氏由緒帳」に、次のような記述がある。

同九年(注 : 慶長九年)奥州米澤上杉景勝殿實子無之、家臣直江山城守女子有之、景勝殿之為養女、政重を以配之。以後男子も於無出生は、上杉家相續有之度之旨に付、瑞龍院様(注 : 前田利長)御怡悦奥州江被遣。右養女無程死去、上杉家にも實子出生、旁以慶長十六年米澤退去。

これによると、政重は、景勝の継嗣出生のために上杉家に来たと読み取れる。(しかも、兼続の娘を景勝の養女とした?)景勝に実子が生れたので、その必要がなくなったということか。(ただし、景勝の子は政重が直江家に来る3カ月前に誕生している。)

政重の妻となった兼続の娘は、程なく死亡し、4年後(3年後?)、兼続の弟で大国家を継いでいた実頼の娘を養女にして政重に配している。このころ実頼は、高野山に出奔していたらしい。実頼の妻子を兼続が世話していたのだろうか。

実頼の娘と結婚して一年後、政重は上杉家を去り、前田家に仕えることになる。二度まで自分の娘(あるいは養女)を政重に嫁した兼続の真意は奈辺にあったのだろうか。

 


 

謎その二】

《直江家断絶之事》・・・直江家が断絶した真の理由とは?

直江家が兼続の代で断絶したことは、一般に次のように説明されている。

実子に先立たれ、養子を迎えはしたが他国へ去り、兼続には跡継ぎがいなかった。ここで新たに養子を迎えて直江家を継がせるか否かの選択に迫られたとき、今、藩の財政は苦しい。それなのに、この先藩のためになるかどうかわからないのに養子を迎えて直江家を継がせて高禄を食ませるのはいかがなものか、それよりも、自分の禄を藩に返すことで藩の財政に少しでも役に立てたい、という兼続の意思によって、兼続の死後、継嗣のないまま、直江家は断絶した。

高潔なかんじがいかにも兼続らしい、と思う。だが、兼続の高潔さばかりが強調されすぎていて、果たして本当にそれだけの理由で直江家は断絶したのだろうか、という疑問をいだかずにはいられない。

兼続の妻おせんの前夫である直江信綱が不慮の死を遂げたとき、その家名の断絶を憂えて兼続に直江家を継がせたのは、主君景勝であった。
それなのに、上杉のために生涯尽くした兼続の死に際して、景勝は、何の手だても講じなかったのだろうか。兼続の「強固な意思」が、景勝をも黙らせてしまったというのだろうか。

お家の断絶とは、武家にとって、屈辱ではないのか。しかも兼続は養子である。養子であればこそ、自分の代で家をつぶすなど、考えないのが普通ではないのか。

この決断に、主君の影が見えず、兼続一人の意思によってなされたような解釈が気になる。記録には残せない何かがあったのか、そう考えるのは、考えすぎだろうか。

 


 

謎その三】

《菩提寺破却之事》・・・兼続の死後、直江家の菩提寺が破却されたのはなぜか?

直江家の菩提寺は与板にあった徳昌寺で、慶長3年(1598)ごろ、米沢に移したらしい。元和5年(1619)、兼続が死去すると、遺体は徳昌寺に埋葬された。
兼続夫人おせんの方の生存中は、徳昌寺で法要が営まれたらしいが、おせんの方が亡くなると、徳昌寺と林泉寺(謙信が帰依していた寺。景勝の移封に伴い、会津、米沢へと移った。)との間で争いが起こり、敗れた徳昌寺は破却されるに至った。

兼続の墓は林泉寺に移され、今日に至っているが、林泉寺の檀家になることを嫌った兼続配下の与板組は、菩提寺を真福寺に定め、兼続の法要を行なった。
その後、宰配頭の平林正興が真福寺住僧と対立、菩提寺を東源寺(信濃泉衆の尾崎家の菩提寺。尾崎家は、兼続の母方の出ともいわれている。)に移した。
兼続の命日(12月19日)には、東源寺で、与板組の手により、法要が営まれたという。
藩をあげての法要というのは行なわれていないらしい。

兼続の法名は「英貔院殿達三全智居士」というが、「英貔院殿」という院号が贈られたのは百回忌のときであった。つまり、死去した当初の法名は、「達三全智居士」だけであった。法名のことはよく分からないが、兼続の生前に亡くなった長男景明の法名が「国恭院殿俊山雲龍大居士」というのと考え合わせると、長年、上杉家の執政を担当した者の法名にしてはいささか簡単すぎないだろうか。

直江家の菩提寺の破却、兼続の法名、兼続の法要など、兼続の死後の一連の事柄を見てくると、これが上杉家のために生涯を尽くしたといってもいい兼続に対する扱いとして適切なものであろうか、と疑問を持たずにいられない。このような扱いを受けなければならなかった理由が、なにかあったのであろうか。

 

2001.7

 

モドル

 

 

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