米沢藩稲富流古式砲術


去る8月28日、長野市八幡原史跡公園(川中島の古戦場)で、米沢藩古式砲術保存会による米沢藩稲富流古式砲術の演武が行なわれました。


鉄砲隊の入場

「毘」「龍」の軍旗が風にはためいています。

・・・といいますか、この日は台風がやってくる直前だったせいか、かなりな強風でした。




第一射撃

このときの射撃手は女性の方でした








立った姿勢、腹ばいの姿勢、膝をついた姿勢からの試射が行なわれました。

耳に響くというより地面から伝わってくる震動がものすごく、まさに「上杉の雷筒」を実感した次第です。




演武終了

円陣を組んでの掛け声が響き渡ります

《上杉家の鉄砲と米沢藩稲富流砲術》

 天文12年(1543)ポルトガルから鉄砲が伝えられた。上杉謙信はいち早くこの新兵器を取り入れ、研究しこれを実戦に活用した。
 直江兼続も熱心な鉄砲研究者であった。
 米沢移封後、近江国国友の吉川惣兵衛、泉州堺の和泉屋松右衛門を招き、秘密裏に吾妻山中(現在の米沢市白布温泉)で1千挺の鉄砲を鍛造した。
 大坂の陣ではこれらの鉄砲によって大きな戦果を挙げた。

 砲術の流儀もさまざまなものがあったが、稲富流砲術は慶長年間、播磨の稲富伊賀守祐直を元祖とするといわれている。大熊伝兵衛信次は兼続の養子の勝吉(本多政重)に田付流を学んだが、後に稲富流を学び、これを伝えた。信次は慶長9年(1604)兼続の近侍となり、100石を与えられている。

 また、種子島流を丸太九右衛門に学ばせ、米沢では大熊伝兵衛と丸太九右衛門を鉄砲頭として代々砲術に励んだ。


参考文献:「上杉の鎧と火縄銃」(宮坂考古館)
       「直江兼続伝」(米沢信用金庫叢書3)


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