Vol.9 倶利伽羅
■義仲、倶利伽羅峠へ 寿永2年(1183)5月9日、般若野(現富山県高岡市)の戦に破れた平家軍は加賀国へ退いていきました。 5月11日、平家軍は軍勢を立て直し、10万余騎を二手に分け、砺波(現富山県)、志雄(現石川県)より越中に入ろうとしました。 木曽義仲は軍勢を7つに分け、十郎蔵人行家に1万余騎をつけて志雄に向かわせ、搦め手の竹橋へ樋口兼光の3000余騎、余田次郎の3000余は倶利伽羅峠の北方安楽寺へ、今井四郎、根井小弥太、巴にそれぞれ1000〜2000の兵をつけて追手の松永方面(砺波方面)に配置し、義仲自らは1万騎を率い、垣生庄(埴生)に布陣しました。 |
《義仲軍の進軍の様子》 おおよその位置関係を記したもので、道幅など、実際のものとは異なります。 それぞれの兵の数は『源平盛衰記』によりました。 |
■護国八幡宮(埴生八幡宮) 出陣にあたり、義仲はここ埴生八幡宮に戦勝祈願をします。そのときの祈願文が現在も残っているということです。 埴生八幡宮は、奈良時代養老年間に、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのに始まるといいます。越中の国司であった大伴家持が、国家安寧の祈願をしたとも伝えられているそうです。 戦国時代になると佐々成政や武田信玄などの武将たちの信仰を集め、江戸時代には、加賀藩主前田家の祈願社となりました。「護国」という社名は、江戸のはじめ、凶作が続いたため、時の藩主前田利長が八幡社に祈願し、この尊号を奉ったことによるといいます。 さて、祈願を終えた義仲のもとに、どこからか白鳩が飛んできて、源氏の白旗の上を翩翻(へんぽん)したということです。(『源平盛衰記』。『平家物語』では、山鳩が三羽飛んで来た、とあります。) 白鳩に吉兆を見た義仲軍は進軍を開始します。義仲軍は八幡社から松永を経て黒坂口に出、南に向かって布陣しました。平家軍も黒坂口に進み、北に向かって布陣しました。こうして両軍対陣しましたが、このときは勝敗はつくことなく夜を迎えます。 |
《護国八幡宮》 |
《護国八幡宮の入り口に立つ木曽義仲の像》 |
■火牛の計 |
夜が更けるのを待って義仲は行動を起こします。追手、搦手から味方の軍を進ませた上、4、5百頭の牛の角に松明をつけ、鎧の袖を片敷いてまどろんでいた平家の軍の中に乱入させたのです。 それからは、地獄絵図さながらの光景が繰り広げられました。主の馬を取って主を忘れ、親の物の具を着けて親を顧みず、我先にと逃げ惑うのですが、東西からは敵が押寄せ、北は険しい山が迫っているため登ることも出来ず、南は深い谷・・・ このとき、不思議なことが起こりました。 白装束を来た人が30騎ほど、南側の谷に向かって「誤ることなくここに落ちよ。」といって平家の軍を招いているのです。その言葉に導かれるようにして、平家の武者達は次々と深い谷底へ落ちていきました。 この白装束の人々は、埴生八幡の霊験であったろうか、としています。 以上が有名な「火牛の計」ですが、この話は『源平盛衰記』が伝えるところのもので、『平家物語』には記されていません。(『平家』では、義仲が奇襲を仕掛けて勝利を得、大勢の平家の武将が深い谷に落ちていったという下りは何ら変わりありませんが。) また、『平家物語』の伝本のひとつである「長門本」には、平家方がこの火牛を使って、自らの砦にこもっている義仲方の富樫らを倒した、と出ています。 |
■倶利伽羅峠の風景 |
《倶利伽羅不動尊》 もと、長楽寺といい、社伝によると、養老2年(718)インドの高僧がこの地にて倶利伽羅不動明王を勧請したのがはじまりといいます。 寿永2年の源平の戦によって、堂宇が焼かれましたが、源頼朝の寄進によって再興されました。 藩政期には加賀藩の祈祷所でした。 |
《源平供養塔》 逆光で見えにくいかもしれません。 八重桜が満開でした。 供養塔に向かって右側に、「清盛ゆかりの松」とあって1メートルほどの小さな松が植えられています。 |
《猿ヶ馬場》(平家本陣跡) 平家の総大将平維盛が本陣を置いたところ。 |
《巴塚・葵塚》 巴は義仲の愛妾で、倶利伽羅峠の戦いでは1000余騎の兵を率いて、追手の部将の一人として参戦しました。 彼女はここで亡くなったわけではありませんが、彼女の奮闘を讃える意味で、塚が建てられたのでしょうか。 「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」 (碑文より) |
巴塚と葵塚へ行く道の分岐点。 道標の右約30メートルほどの藪(!)の中に巴塚があります。 葵塚は道標の奥へ6、70メートルほど行った先にあります。 道なき道のようですが、実際にはちゃんと道になっています。 |
葵も義仲の部将として倶利伽羅の戦いに参戦したということです。彼女はこの戦で亡くなり、屍をこの地に埋めて弔ったということです。 「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す 屍を此の地に埋め墳を築かしむ」(碑文より) 碑文にもあるように、巴塚のほうは、平地に碑が建っていましたが、葵塚は土を盛った(というか築山のような「山」になっていましたが)上に碑が建てられていました。 |
《歴史国道》 倶利伽羅峠は源平の時代はもちろん、古来から重要な幹線道路でした。 藩政期には加賀藩の参勤交代の往還路にもなっていました。 石川県河北郡津幡町竹橋から富山県小矢部市桜町(縄文遺跡で有名な桜町です。)までの12.8キロが、平成7年に「歴史国道」として認定され、整備が行なわれています。 写真のような昔の往還を忍ばせるような道も残されています。 倶利伽羅不動尊はじめ源平の史跡のある辺りには駐車場もありますので、移動は車でOK。道幅は山道にしてはそれほど狭くはありませんが、峠道はところどころガードレールのないところもあり、注意が必要です。 |