Vol.3 燧ヶ城

福井県南越前町今庄


 さるほどに、木曽義仲は、自らは信濃にありながら、越前国火燧が城をぞ構へける。かの城郭に籠る勢、平泉寺の長吏齋明威儀師(さいめいゐぎし)・富樫の入道佛誓・稻津新介・齋藤太・林六郎光明・石黒・宮崎・土田・武部・入善・佐美を初めとして、六千余騎こそ籠りけれ。所もとより屈竟の城郭、磐石そばだち囘(めぐ)って、四方に峰を連ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河(のうみがは)、新道河(しんだうがは)とて流れけり。かの二つの河の落合に、大石を重ね上げ、大木を伐って逆茂木に引き、柵(しがらみ)をおびたゝしうかき上げたれば、東西の山の根に、水塞(せ)きこうで湖に向かへるが如し。・・・・・(中略)
船なくしてはたやすう渡すべきやうなかりければ、平家の大勢、向の山に宿していたずらに日数をぞ送りける。・・・(『平家物語』巻七 火燧合戦の事)

(意訳) 
 木曽義仲は、自身は信濃にいましたが、軍に命じて越前国火燧ヶ城を造らせました。その城郭に籠る味方の軍勢は、平泉寺の長吏齋明威儀師、富樫入道佛誓・稻津新介・齋藤太・林六郎光明・石黒・宮崎・土田・武部・入善・佐美といった面々、六千余騎。所柄、そこは屈強の城郭で、堅い岩々が高くそびえてめぐり立ち、四方は山の峰々に連なっています。山を前後に構え、城郭の前には能美川、新道川という二筋の川が流れ、自然の要塞を成しています。その二つの川が落ち合う場所に、大石を積んで、大木を切って逆茂木(とげのある木の枝を立てて並べ、結び合わせて作った柵)をつくり、しがらみをいくつも積み重ねると、東西の山の麓に、水がせき止められて、まるで湖のように満々と水を湛えたのでした。
 (中略)
 船がなくてはたやすく渡ることもできないので、平家の軍勢は向かい側の山に陣を張り、いたずらに日を送るのでした・・・



燧ヶ城跡に残る石垣


■火燧合戦■

 寿永2年(1183)春。木曽義仲の軍勢は、京を目指し、北陸道を突き進んでいました。彼らの行く手を阻むため、平家軍は近江を北上。
 二つの軍の最初の大きな戦闘は、ここ燧ヶ城を舞台に繰り広げられました。

 義仲追討の命を受け北国へ向かった平家の軍は三位の中将維盛らを大将軍とした10万余騎。対する義仲軍は六千余騎。

 義仲軍は燧ヶ城を築城。ここは、冒頭に掲げた『平家物語』が語るように四方を山に囲まれ、麓を二筋の川が流れるといった天然の要塞と呼ぶに相応しい場所でした。
 義仲軍は川をせきとめ、それは巨大な湖のようになり、渡る術を持たない平家軍はいたずらに日を送る以外になかったのです。

 ところが義仲軍に従軍していた平泉寺の斉明の返り忠によって、このこう着状態は打破されることになります。
「この淵は自然のものではなく、川をせき止めて水を濁し、人の心を惑わしているに過ぎない。・・・」斉明は文をしたため、矢文にして平家の陣へ射入れたのでした。
 これを知った平家軍は、夜になって川をせき止めていた柵を壊し、水位が減ったところを渡河し、義仲軍の籠る城を攻めたのでした。
 多勢に無勢の義仲軍は後退を余儀なくされ、加賀の国に引き退いていったのでした。

 返り忠をした平泉寺の斉明は、このあと倶利伽羅の戦いで義仲軍に捕らえられ、斬られることになるのです。


■燧ヶ城訪問記■

燧ヶ城を訪れたのは、4,5年前、ほんの偶然の出来事でした。
 金ヶ崎城を目指して車を走らせていたところ、どういうわけかナビが今庄インターで下りるよう指示。あれ、もっと先じゃないの?と思いながらもナビにしたがって今庄で下りたところ、たまたまこの城跡に行きついたのでした。

 今庄の町はかつての宿場町の面影を宿した静かな山あいの町です。
 戦国時代には燧ヶ城は一向一揆の拠点にもなりました。
 蓮如の旧跡も残されており、蓮如が隠れ住んだという山の中の岩場にも行って来ました。
 燧ヶ城跡の麓には観音堂があり、「義仲の目覚めの山か月悲し」という芭蕉の句が道標に掲げられています(写真)。

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